レビュー
「この音とまれ!」キャラクターたちの成長する姿に涙せずにはいられない青春群像劇
2025年3月3日 00:00
- 【第32巻】
- 3月4日 発売予定
- 価格:638円
明日3月4日にジャンプコミックス「この音とまれ!」の32巻が発売される。本作は高校の筝曲部を題材としたアミュー氏による作品で、2012年より10年以上に渡ってジャンプスクエアで連載が続いている。
1人で部を立て直そうとしていた部長の倉田武蔵、親に見捨てられ荒れた生活を送っていた久遠愛(ちか)、箏の家元・鳳月会の一人娘であるが破門されている鳳月さとわの3人を中心に、様々な悩みや苦難にぶつかる登場人物たちが周囲の力を得ながらそれを乗り越えていく様を描いた群像劇が描かれる。アニメ化や舞台化もされているほか、作品内の曲がまとめられたCD「この音とまれ! ~時瀬高等学校筝曲部~」は第72回文化庁芸術祭レコード部門で優秀賞も受賞している。
今回発売される32巻で大きなクライマックスを迎える本作を、この機会にぜひ紹介したい。
女の子たちの“表情”が最高に可愛い!
「この音とまれ!」は、神奈川県立時瀬高校の筝曲部を舞台とした物語だ。筝曲部にそれまでいた部員たちは卒業し、2年生の真面目で気弱な眼鏡男子・倉田武蔵が1人残っているだけであった。その状況に付け込まれ、筝曲部の看板は落書きされ、部室は不良たちの溜まり場となり、さらに箏は壊されるなど、とても部活が出来る状態ではなかった。
そこに入部希望者として現われたのは、中学の時に不良として名を馳せていた久遠愛。部室にたむろしている不良たちをたたき出し、武蔵に入部の意思を告げる。暴力的で粗野な言動が目立つ愛が真剣に箏を弾くとは思えず拒否する武蔵であったが、愛には箏職人の祖父がいた。この筝曲部は祖父が作ったものであるということ、そしてその祖父を襲った暴力事件で犯人として冤罪をかけられた過去が明らかとなる。
さらにその2人の元に、同じく新入生で天才的な箏の才能を持った鳳月会の家元の一人娘・鳳月さとわが加わり、部を立て直し全国大会優勝を目指していくというストーリーである。
そんな作品の最大の魅力はとても繊細なアミュー氏の絵柄で、言葉にしていないキャラクターの感情を表情の描写だけで見事に描き出しているところだ。アミュー氏は、第57回りぼん新人漫画賞で準入選を受賞し、「りぼん」でデビュー。その後少女漫画から少年漫画に移る際には髪のつやベタ、コマ割り等は変えたというが、少女漫画を経ていることもあってかとても綺麗で見やすい絵柄であり、なにより恋する女の子たちの表情が堪らなく可愛い。
どんな時にドキッとして、そしてどんなことで思わず涙が出るくらい心を揺さぶられるのか、など「この音とまれ!」に出てくる少女たちの心の動きはどれも共感できるものばかりだ。特に上級生である来栖妃呂の恋心は大人びた外見に反してとても健気で愛らしく、読んでいてキュンキュンしてしまう。
音楽的にとても恵まれた環境で生まれた作品
もちろん、「この音とまれ!」の見どころは恋愛模様だけではない。この作品の一番の特徴は、作中に登場する曲が「実際に存在している」ということだろう。一般的には音楽漫画などで登場するオリジナル曲はアニメ化や実写化しない限り、演奏したり歌ったりするキャラクターたちや観客の表情・台詞・モノローグで「きっとこんな感じなんだろうな」と想像することしかできない。
ところが本作の作者アミュー氏の母は琴教室を開いており、姉・橋本みぎわ氏はプロの琴奏者。アミュー氏の作中のオリジナル曲は、そのアミュー氏の母・姉によりアミュー氏による「こんな感じで!」という要望にあわせて作られた楽譜を参考に描かれているという。その楽曲はみぎわ氏を中心に演奏され、ジャンプスクエアの公式YouTubeチャンネルで聴くことができる。また、アミュー氏のサイン会の折にはミニライブが開かれたりもしている。
そして大会で演奏されたライバル校のオリジナル曲以外の楽曲もキングレコードによりCD化されており、こちらからも作品の世界を広げることができる。収録された曲の中には愛もさとわも居なかったころに演奏された「武蔵のあまり上手くない六段」もあり、まさに作品内での音をそのまま楽しめるのだ。
作中にその曲が弾かれている箇所を、実際にその曲を聴きながら読むとこの上ない臨場感が味わえる。音楽の漫画を読むにあたって、これ以上の演出効果はないだろう。
それだけではない。「この音とまれ!」で作られた曲は楽譜も発売され、実際の高校の筝曲部を中心に様々な所で時瀬の全校生徒に筝曲部の存在を認めさせた「龍星群」や神奈川県予選で披露し、全国大会行きを決めた「天泣」が演奏されるようになった。ほかにも「[この音とまれ!]龍星群コンクール」などもジャンプスクエア公式で開催され、音楽的に大きな広がりをみせたという点でも、とても素晴らしい作品である。
さらに加えたいのは、アミュー氏自身が幼少の頃から箏を習っていたことや、アミュー氏の母やみぎわ氏が実際に学校の筝曲部で箏の指導にあたっていたことから、部員たちがつまずく箇所や悩み、箏に関する知識がとても正確に描写されているのも特徴のひとつだろう。
ひとりひとりが悩みと向き合いながら前に進んでいく群像劇
ここまでは恋愛的要素、そして音楽的な部分について語ってきたが、アミュー氏によれば本作は「お箏が中心ではなく青春群像劇であること。愛たちの青春に、お箏がある。」という。実際、一番強烈に、そして絶え間なく描かれているのは各キャラクターたちの苦悩とそれを乗り越えていく様子だ。
先輩たちが卒業し、ひとり取り残された中でなんとか部を守ろうとする武蔵。親に見放され、心を開きかけていた祖父を襲撃したという冤罪をかけられた愛。かつての優しい母を取り戻そうと大会で失格演奏をして破門になったさとわ。たぐいまれな作曲の才能を幼い頃に発揮してしまった為に大人たちに翻弄され、音楽を嫌いになった顧問・滝浪。努力を信じて頑張ってきたのに、圧倒的才能の前に打ち砕かれた外部指導者・晶。
ほかにも、時瀬高校の部員たちだけでなくライバル校や大人たち、そして年度がかわり新しく入った新入部員たち。それぞれに悩みや辛い過去や境遇がある。けれど一人一人が箏と、そして周囲の人々の心に触れ、立ち直ったり克服したり、心を開いたりしていく様子が丁寧に描かれていて、そんな場面を読むだけで自然と涙ぐんでしまう。
部員は3人だけ、しかも大会の途中で演奏が止まってしまったというような心もバラバラな弱小校の部員たちが時瀬高校の演奏により心をひとつにしていく様子も描かれ、本当にどんな人にも語るべき背景があると語りかけてくる。
一方で立ちふさがる困難の全てが解決する訳ではない。そんな甘いだけの展開ではないことが、作品により深みを持たせている。どれだけ成長しようとも大会で敗退してしまうキャラクターが大半であるし、いくら改心したとはいえ、過去に荒れた生活を送っていた愛が何の問題もなくそのまま許されることもない。そんな中で、私が一番驚いたのは、愛の友人として筝曲部に入った1人、堺通孝のエピソードである。
愛の友人として筝曲部に入った3人のうち、水原光太はリズムを取るのが苦手だったり、足立実康は愛との才能の差に悩んでいたりという描写があったが、その中で道孝だけは特に悩む様子もなく2年生になった。しかし全国大会に向けて曲の練習に部員一同励んでいる最中に、道孝の母が骨折したという連絡が入った。家族が突然、それまでと同じことが出来なくなる。それはいつどの家庭に起こってもおかしくないものだ。
さとわや愛、滝浪のような人生はあまりに世界が違い過ぎて、映画館の椅子に座りスクリーンを見るように、一歩引いた場所から他人事として彼らの人生を見ていた。ほかのキャラクターたちの悩みも、特にその道に進んだり積極的に関わったりしなければ自分には訪れないもので、どこか客観的に見ていたように思う。だが道孝に訪れたものは、どんな家庭でも唐突に起こりえるもので、明らかに他のキャラクターたちの悩みとは一線を画していた。
家族の1人が突然入院することになって家庭が回らなくなる。それは未成年や病人、老人を抱える家庭なら決して他人事ではない。全員独立した社会人だけの家庭や一人暮らしであっても、それまで通りの生活が送れなくなる。
特に5人兄弟の長男である道孝に掛かった負担は重く、必要な練習時間が取れない状態になってしまう。それはこれまでのように「頑張る」とか、仲間たちの「絆」や「愛」「情熱」では何ともならないどうしようもない物理的な問題。全ての問題が解決できるわけではない、というこのほろ苦さを感じるリアリティある展開が挟まれたことにより、筆者含め読者は傍観者ではいられなくなってしまう仕掛けだ。
一般人には味わえないドラマティックなものから、部活や勉強でありがちなコンプレックス。縁遠いものから自分にも覚えがある感情。色々な人生が描かれている。読む人それぞれの持つ背景によって心に響く箇所は違ってくるであろう。ただ、読者がきっと共通して心に宿すのは、皆を応援したいという気持ちではないだろうか。登場する子どもたちが変わっていく様子に、彼らを取り巻く大人たちと共に力になりたいと思ってしまうほどだ。。
以上のように、様々なキャラクターの人生を綴ってきたこの群像劇も、明日発売の32巻でいよいよ待ち望んだクライマックスが訪れる。31巻で一英高校の演奏が終わり、32巻ではついに時瀬高校の演奏が始まるのだ。1巻の頃から目標としていた、全国1位をかけた舞台。長い時間をかけて9人の部員たちがどのような「和」を表現していくのか?そして愛を見捨てていた愛の父親は、彼の演奏で何を見出すのか?今から楽しみでならない。早く、彼らの演奏を味わいたい。
そしてまだ読んでいない人はぜひ手に取ってもらいたい。人の強さ、優しさ、素晴らしさを存分に味わえ、心が浄化されていく作品である。