特別企画

「湾岸MIDNIGHT」1巻発売から32年。人が何かに魅入られることの代償

悪魔のZを追い求めた者たちの物語

【「湾岸MIDNIGHT」1巻】

1993年1月5日 発売

「湾岸MIDNIGHT」1巻

 朝倉アキオが解体所で見つけたS30型の「日産・フェアレディZ」。それを買い取り、実走できるようにした所から「湾岸MIDNIGHT(湾岸ミッドナイト)」の物語は始まる。

 まるで悪魔が取り憑いているような魅力があるこのマシンは「悪魔のZ」と呼ばれる。以前のオーナーは事故死し、そこから別のオーナーの手に渡る。だがそこからも縁起が悪い車と言われており、必ずスクラップにするように依頼される。だが、そこを本作の主人公の朝倉が見つけてしまい、復活させてしまうのだ。

 そんな悪魔とも呼ばれる存在に魅了された主人公のアキオと、多くの登場人物が繰り広げる人間ドラマが描かれるのが、講談社のビッグコミックスピリッツおよび週刊ヤングマガジンにて連載された楠みちはる氏のマンガ「湾岸MIDNIGHT」だ。

 悪魔的な魅力にとりつかれてしまった多くの登場人物は、時速300kmを越える深夜の公道レースにのめり込んでいく。ガンになっても、治療より悪魔のZとのバトルを選ぶ者もいれば、チューンドカーのレースから足を洗っていたところから、金銭も時間も、そして人間関係も含めて、あらゆるモノを犠牲にして、悪魔のZとのバトル選ぶ者もいる。

 人々は何を求めて、すべてを賭けたバトルに挑むのか。心に残るシーンとともに振り返っていこう。

作中で悪魔のZと呼ばれる「日産・フェアレディZ(S30)」(画像はオートアートの「1/18 日産 フェアレディZ (S30) 『湾岸ミッドナイト』 悪魔のZ 連載開始30周年記念モデル」

「悪魔のZ」に魅せられた者たちの群像劇

 本作は、「悪魔のZ」に魅了された人物ごとのエピソードに分かれている。

 細かい部分は一部異なるが、登場人物毎に、悪魔のZと朝倉アキオの出会い、そして悪魔のZとのバトルに向けた準備、そしてバトル本番、そしてバトルが終わった後のストーリー、という順番で描かれていくのだ。そのため、本作のストーリーや魅力のコアはこの登場人物たちにある。

 それは主人公の朝倉アキオもその1人だ。物語序盤では女性をナンパするようないわゆるチャラい若者として登場する。だが、悪魔のZを手に入れたことで彼の人生はこの車と共にあるために大きく変化するのだ。

朝倉アキオ(画像は「湾岸ミッドナイト MAXIMUM TUNE 5」のページより)

 この悪魔のZは、“地獄のチューナー”という異名を持つ北見淳によるチューニングが施されたマシン。このマシンは朝倉アキオを魅了する。

 大破するような事故を起こしても自分で修理し、調子を崩しているエンジンをオーバーホール(完全分解し、部品を洗浄したり交換し、再度組み立てること)まで自分でしてしまう。

 「あのZをバラしてもとどおり組めるやつは一人しかいないけどな……」と話した北見だが、その大変な作業をアキオはやってのけるのだ。

 そして、このチューナー北見もまた悪魔のZに魅了された1人だ。

北見淳(画像は「湾岸ミッドナイト MAXIMUM TUNE 5」のページより)

 公道最速仕様のマシンを作るチューナー北見。北見が手がけた車が事故を起こし、ドライバーは瀕死の重傷を負う。だが、彼がチューンする車はスピードを求める者にはたまらない魅力があり、一方で誰も乗りこなせないマシンだったと語られる。

 そしてライトな新興チューナーの台頭により、北見の工場の客は一気に減り、借金ばかりがかさむ。チューナーとして行き詰まり、工場もガタガタ、家族にも見放される。そんなどん底の状態で「朝から晩までとりつかれたようにあのZに手を染めていってオレは幸せだった」と語る北見。このフレーズからも彼が悪魔のZにとりつかれたことが感じられる。

 そして北見はこう言うのだ「愛してくれオレの作った車を。愛してやってくれ、その悪魔のZを。お前ならできる……。走るために生まれてきた、とびきりのヤツなんだ。もうオレは悔いはない……」このセリフからも彼の悪魔のZへの思いが強く伝わるだろう。

 そして、ドライバーとして相対するのは、悪魔のZの前のオーナーと関わりがあり、悪魔のZに、そしてアキオの魅力にとりつかれてたのは湾岸の黒い怪鳥こと「ブラックバード」というポルシェとドライバーの島達也だ。

島達也(画像は「湾岸ミッドナイト MAXIMUM TUNE 5」のページより)

 彼は医者として大学病院に勤務しており、実生活では何の不満もなさそうに描写されている。だが、この悪魔のZに、スピードの世界に魅了され、マシンに多くの時間と金銭をかけている。

 本作に登場するほかの多くの登場人物もまた、この悪魔のZの魅力に引き込まれ、ストーリーが展開していく、そんな姿が描かれるのだ。

運命の分岐点。平本洸一のエピソードから見る究極の選択

 本作には複数の登場人物がそれぞれ悪魔のZとの宿命的な対決に魅入られていく。そのため、ざっくりと登場人物毎のエピソードが独立した物語として展開されると考えていただければと思う。

 本作には多くの印象的なエピソードがあるが、中でも筆者が最も深く印象に残っているのが、メカニック・平本洸一の物語だ。安定した仕事、妊娠中の妻、そして生まれてくる子供――すべての幸せを手にしていた男が、悪魔のZとの出会いによって追い込まれていく様は、本作のテーマを凝縮している。

 平本は自分でマシンをチューニングしたり、チューンドカーに乗ることから卒業している。というのもマシンのチューニングには金がかかる。平本の借金は増え、同棲していた彼女には六本木でバイトに行かせていた。そして、3年前、彼女が流産をしたことをきっかけに平本は走りの世界から降りたのだ。

平本洸一(画像は「湾岸ミッドナイト MAXIMUM TUNE 5」のページより)

 走りの世界から足を洗った平本は普通のメカニックとして平穏な人生を生きていた。しかし、悪魔のZとの運命的な出会いが、その穏やかな日常を一変させることになる。そこからは、同じカーディーラーでで働く後輩の原田に付き合わされる程度だ。

 彼は妊娠している妻と暮らしており、原田につきあわされて走りに出るときも「……心配すんなヨ。もう昔とは違うんだから」と口にし外に出る。だが、平本は悪魔のZを見てしまった、いや、悪魔のZに出会ってしまったのだ。それをきっかけにまた走り出すことになる。3年前に出会って憧れたBNR32型の「スカイラインGT-R」を選び、この車に命をのせて。

 一方、車を準備するためには当然多額の金銭が必要だ。そのために平本は、子供のために貯金した約400万をつぎ込みGT-Rを手にする。その平本の行動に妻は「あたしはもうついていけない……」、「さよなら。子供はあたしが1人で……」と平本に告げるのだ。平本は妻やこれから生まれてくる子供ではなく、悪魔のZとのバトルを選んでしまったのだ。

 そして平本はバトルのために平本の昔の仲間「マツ」に連絡し、マフラーなどエキゾースト関連のチューニングを依頼し、2人で車を作り上げていく。

マツ(画像は「湾岸ミッドナイト MAXIMUM TUNE 5」のページより)

 しかしマツの母親に、マツは平本のせいで最近仕事に本腰が入らなくなったと言われ「あんたはズルいよ。人のいいうちの息子をいいように利用しているだけ……。昔から友達なんかじゃないよ……」と言われてしまう。この言葉をきっかけに平本はマツに決別を告げる。

 妻は実家の宮崎に帰り子供が生まれた。昔の仲間だったマツとも決別する。2人との別れを受けて平本は「幸せのカードを捨てて、終わりのない走りをとってしまった」とこぼしつつも、悪魔のZとのバトルに挑む。

 そのバトルでは隣に乗った後輩の原田に「ベストだ。これ以上のGT-Rはちょっとない」と思わせるほどのチューニングに仕上げ、目の前の一般車両がなくなる「オールクリア」の状態。悪魔のZとブラックバードと並んだ平本はアクセルを踏み込む。

 メーターでは時速300km、このまま踏み込めば時速320kmも――というところで平本はアクセルを抜いてしまう。「ほんの一瞬でも迷ったら最高速は終わり」。それは平本が以前マツに言った言葉だ。そう、平本は最後に妻や子供のことを思い出し、アクセルを抜いてしまったのだ。

 最終的にチューニングしたGT-Rはグリーンオートの社長が買い取る形で処分され、平本はマツに手紙を送る。その手紙の最後にはこう書いてある。「これで本当に満足したのかはわからない……」。ただ確実に言えることは、平本は悪魔のZとのバトル、そして最高速レースから降りたのだ。そして妻と子供を追い宮崎へ向かうというシーンでこのエピソードは終わる。

 こういった人間ドラマが本作の読者の心を揺さぶるのだと筆者は思う。登場人物の感情の動き、悪魔のZに魅了されてしまったが故に、色々なものを失い、それでもバトルに挑む。この公道上で繰り広げられるバトルは、チューニングの腕が、ドライバーの腕が良ければ相手に勝てるというレースではないのだ。

平本洸一のエピソードはコミックス3巻から始まる

普遍の人間ドラマとして、今読み返す「湾岸MIDNIGHT」

 「湾岸MIDNIGHT」は1990年に始まり2008年に連載を終了した。コミックスとしては全42巻にも及ぶ。その後、続編にあたる「湾岸ミッドナイト C1ランナー」という新シリーズの連載が行なわれたほか、楠みちはる氏の最新作「首都高SPL」は現在も「月刊ヤングマガジン」にて連載中で、コミックスとしては最新11巻が発売中だ。作品の魅力があるからこそ、これだけ長く愛され、その魅力で最も大きいのは先ほど紹介した人間ドラマだと思う。

 本作が描くのは、人が何かに取り憑かれ、すべてを賭けて追い求めていくという物語だ。車への情熱はその象徴であり、読者それぞれの経験や憧れと重なる部分もあるだろう。

 時代を超えて読み継がれる理由は、この強い執着と、それゆえの喪失という誰もが共感できるドラマにあると筆者は考える。

 人間の根源的な欲望と覚悟を描いた本作は、いま読んでも色褪せることのない感動を与えてくれるはずだ。

首都高を舞台に「湾岸MIDNIGHT」のセカンドステージを描く続編「C1ランナー」は全12巻となっている
「首都高SPL」は月刊ヤングマガジンにて連載中。最新刊は11巻